Dancing in the Rain

Dancing in the Rain

Life is not about waiting for the storm to pass but about learning how to dance in the Rain.

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まどろみの中で【旅エッセイ/アメリカ(アリゾナ・ユタ)】

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聞き慣れたアラームで目が覚める。午前5時。凍えるように寒い。ぱちぱちと雨粒が車体に当たる音が聞こえる。

窓から外を覗くと焚き火はすっかり冷たい灰へと姿を変えていた。車の中で身を屈めて寝ていたせいで体の節々が軋む。このままもう二度と朝はやって来ないんじゃないかと思うくらい、空は分厚い雨雲にすっぽりと覆われている。もう朝日を見るのは諦めた方がいいのかもしれない。

それでも僕は、念のため持っていた懐中電灯と折りたたみ傘を持って外に出る。薄いダウンの隙間から凍てつく風が刺すように入り込む。でも、ここまで来たからには行くだけ行ってみるしかない。張り巡らされた金網を越えて向こう側へ出る。そこはもう完全にナホバ族の領域だった。

ユタ特有の広大な赤土の平原が目の前に横たわっていた。それは昔見た古い映画に出てくる見知らぬ惑星の一風景を思い起こさせた。薄暗がりの中、ところどころに生い茂る乾燥地帯特有の背の低い灌木だけが不自然に目に迫ってくる。それは静かに呼吸をしているのだ、と僕は思った。沈黙を守ることで、異物の存在(つまり、僕自身だ)を拒んでいるのだ。

濃霧に覆われているものの、うっすらと遠くの方に巨大な岩壁が見える。いや、それは案外近くにあるのかもしれない。遠近感が喪われている。どこまでも同じような風景が続いていた。目の前にも後ろにも道などなかった。時々、白い杭のようなものが目に入った。たぶん何かの目印になっているのだと思う。でももはやそれは何の意味もなさなかった。

足元の赤土は断続的な雨でひどくぬかるんでいた。時々、何かの足跡を目にすることもあった。それに、動物の糞のようなものも落ちていた。どこか遠くの方で何かに見られている気がした。僕はふと懐中電灯を消す。ここは彼らの領域なのだ。彼らの了解を得ずして踏み入れてはならない場所なのだ。何が起きてもおかしくない。

ただひたすら歩き続けることしかできなかった。どの方角に向かっているのかすらも分からなかった。握りしめていた携帯の電波はいつの間にか失われていた。靴はすっかり泥まみれになっていた。寒さで震えが止まらない。だんだん手の感覚がなくなっていくのが分かる。僕はただ、岩壁の隙間から微かに見える光だけを求めて、文字通り無心に歩いた。その光が僕をどこに導いているのか見当もつかなかったけれど、他に信じるべき道標もなかった。

しばらくしてやっと開けた高台に出る。断崖絶壁と言ってもいいかもしれない。いつかどこかで見た景色。奇岩の織りなす異世界。モニュメント・バレーだ。地平線の方を見渡すと、重なり合った雲の合間から眩いばかりの光がほんの少しだけ漏れている。気づけば雨もほとんど小雨になっていた。そのうち太陽がひょっこりとその姿を見せるかもしれない。僕はじっと寒さに耐えながらその時が満ちるのを待つ。

どれくらい時間が経っただろう。分厚い雲の合間から煌々とした朝の光が湿った大地に差し込む。それはまさに目に突き刺さるように鮮烈で、それでいて温かな光だった。僕は、握りしめていた折り畳み傘を思わず放り投げて(何故そんなことをしたんだろう)、そこに一人立ち竦んでいた。全身の力がふと抜けていくのが分かる。いつかの感覚に似ていた。

僕が何か言葉を探している間に、太陽はまた深い深い雲の中に潜り込もうとしていた。ふと振り返ると、真向かいの崖の上の巨岩に虹の足がかかっていた。虹が降り注いでいたと言った方が良いかもしれない。でも次の瞬間、それは跡形もなく消えてしまった。本当に一瞬の出来事だった。それは儚くも喪われることで、僕の心にすっと留まり続けるのかもしれない。ある種の夢や希望と同じように。

またずいぶんと無茶なことをしたな、と僕は思った。それから、もう今回の旅はこれで終わりにしよう、と思った。今この胸にある何かを、別の何かで塗り替えるべきじゃない、と何だかそんな気がした。

いつの間にか空はすっかり白んでいて、いつもの見慣れた朝がやってきていた。