Dancing in the Rain

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Life is not about waiting for the storm to pass but about learning how to dance in the Rain.

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コニー・アイランドの憂鬱 【旅エッセイ/アメリカ・ニューヨーク】

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コニー・アイランドという地名が、なんとなく頭の片隅に残っていたのは、最近見た映画のちょっとした場面に登場したからだった。

 

ニューヨークが舞台の物語。親友に裏切られ、おまけに母親ともなんだかうまくいかない思春期の娘。亡くなった祖母だけが心のよりどころだった。ある日、彼女はマンハッタンを飛び出して、ブルックリンにあるコニー・アイランドへと一人で向かう。浜辺に座って、波音に耳を傾けながら、祖母に想いを馳せる。気がつけば祖母が彼女の隣に座っている。肩を寄せ合う二人。かつてよくそうしたように。海辺の遊園地は昼間と打って変わって静まり返っている。星空だけが二人を見下ろしている。

 

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遅かったじゃない、と詰め寄る母親。娘の返事はない。「コニー・アイランドまで行ってたの」と彼女はぼそり呟く。すると母親は血相を変えたように言う。「ねえ、あなた今日は学校お休みしなさい。2人だけの時間が必要だわ」それから、母親は娘をぎゅっと抱き寄せる。彼女は、その瞬間、喪われかけた愛がまだそこにあることを知る。母親が自分にもう一度振り向いてくれたことを嬉しく思う。たとえそれが、ほんの束の間のものであったとしても。

 

ぼうっと見ていたら何気なく見過ごしてしまいそうなシーンではあるけれど、やはりこの場面のポイントは、年頃の女の子(中学生くらいだったと思う)がマンハッタンから小一時間かけてメトロに揺られながら、コニー・アイランドに一人で出かけていく、というところにあるのだろうと思う。これにはやっぱり母親にとってそれなりのインパクトがあるんじゃないか。もしこの映画の舞台が東京で、世田谷かどっかの瀟洒な邸宅に住む一家の娘が、小田急で江ノ島まで行ってきたの、なんて言ったならば母親は同じような対応しただろう(偏見です)。

 

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そういう柄でもないのだけれど、時々、無性に浜辺で風に吹かれていたいと思うことがある。たぶん、これが初めてのニューヨークで、時間もそれなりに限られていたならば、わざわざオフ・シーズンのコニー・アイランドのビーチまで出向くことはなかったろう。けれども、幸いにもそれは僕にとって4回目のニューヨーク訪問で、それに完全に自由に自分の時間の使うことができた。行き帰りを考えると結構な遠出ということになるけれど、かといって他に行きたいところもうまく思いつかない。それに例の映画のこともある。

 

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メトロはいつの間にかマンハッタンを抜けると、地上に出て橋を渡りブルックリンへと向かっていた。4月のよく晴れた平日の午後。もともとそんなにいなかった乗客の数もどんどんと疎らになっていく。本当にこのまま乗っていても大丈夫なのかと、少し不安になってくるくらいに。なんというか、この感覚は東京からどこか郊外へ出てさらに海辺へと向かう路線に似ている気がする(それこそ小田急線か片瀬江ノ島線らへんなんじゃないかと思う)。

 

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調べてみると、コニー・アイランドというのは、100年以上も前からニューヨーカーや観光客に愛されてきた憩いの場で、現在でも夏になれば、ビーチはもちろんのこと、水族館や遊園地に人の波が押し寄せるのだという。けれども、実際に足を運んでみると、ロー・シーズンだからか、これでもニューヨークなのかと思うほど、なんとも鄙びた雰囲気である。日本のような海の家こそないけれど、海浜に向かって等間隔に置かれたベンチには、なんだか物憂げな人々が(多くは老人である)ただただ座ってじーっと水平線の彼方を眺めているか、何をするでもなく佇んでいるのだ。なんとも言えない哀愁が、そこにはある。僕は彼らの抱えるそのやり場のない感情をコニー・アイランド的メランコリー、と呼びたい(たぶん、というかもちろん英語にもそんな表現はない) 。

 

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僕は彼らを横目で眺めながら、海岸線沿いに張り巡らされたボード・ウォークをひたすら歩いて、なんとなく人気のある方へと向かっていく。ヘルシンキで見たような図体の大きなカモメが、眩いばかりの太陽を背に悠々と頭上を飛び交っている。しばらく歩いていると、昔ながらのホットドック・スタンドが立ち並んでいるのが見えてくる。ここまで来ると少し賑わいが感じられる。カメラを携えた観光客らしき人々も増えてくる。それから何と言っても、コニー・アイランドの最大の目玉は、(水族館もあるけれど)このどこか懐かしいような遊園地だろう。と言ってもそれは、とてもこじんまりとしていて、遊園地というよりかは、行き場のないジェットコースターやら観覧車やらを便宜的に陳列しただけの屋外博物館のようにも見える。

 

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やはりまだ春だからか、遊園地の半分以上のアトラクションが稼動してしていなかった。これがまたなんとも侘しい感じで、なんというか、どうしようもなく気だるい雰囲気があっていい。そして、皮肉にもこの遊園地の存在は、彼らが抱えるコニー・アイランド的メランコリーを陽気に笑って吹き飛ばすどころか、逆に彼らに同調するかのような、あるいは、そっと寄り添うかのような、そんな不思議なフィット感がある。

 

とはいえ彼らがどうして、そして、どこからこの海岸にやってくることになったのかを僕は知らない。あるいは、僕は少し感傷的になり過ぎているかもしれない。映画のせいもある。実際のところ、彼らはただただ海辺の風に当たりたくて、ふらっと散歩がてらやって来たマンハッタンの高級アパートメントに住むラグジュアリーなご老人かもしれない。ウォール・ストリートで荒稼ぎした後のアーリー・リタイアメントで時間を持て余したノマドなのかもしれない。あるいは、僕みたいな物好きな旅行客かもしれない。

 

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ただ、僕がここで言いたいのは、つまり誰にだって、多かれ少なかれ何かしらのコニー・アイランド的な問題(ないし憂鬱)を抱えているし、そして時にそれは、コニー・アイランド的な解決を必要としているのだということだ。映画の中の女の子みたいに、ある日ふと思い立ってコニー・アイランドの浜辺で風に当たっている、そんな日があってもいいんじゃないかということなのだ。

 

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映画について

文中に出てきた映画は「ワンダー 君は太陽」です。紹介は割愛しますがラストシーンからお気に入りのセリフの引用を。

Be kind, for everyone is fighting a hard battle. And if you really wanna see what people are, all you have to do... is look.

必死にたたかっている人に優しくすること。それから、もし本当にあなたがその人のことを知りたいと思うなら、すべきことはただ一つ、見るということ。

 

 

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