Dancing in the Rain

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Life is not about waiting for the storm to pass but about learning how to dance in the Rain.

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モノローグの可能性 話したいけど話せないこと、伝えたいけど伝えられないこと

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昨日の午後たまたま時間が空いていたので珍しく大学の Me Too Monolougeというイベントに行ってきました。

ノローグ(monologue)というのは、日本語だと「独白」と直訳されるようですが、最近では、カタカナでそのままモノローグと呼称される場合も多いんじゃないかなと思います。まあ要は、舞台上で、自分の考えや感情を一人語りで表現するというものです。ちなみに反意語はダイアローグ(dialogue)、つまり「対話」ですね。 

昨年、ちょっと別の角度から英語を学ぼうと Acting and Role-playing というクラスを取っていて、そこで初めて挑戦したモノローグ。長台詞を全て覚えないといけないのはもちろんのこと、舞台上には小道具もなければ、音響も照明も、他に助けてくれる共演者もいないため、言葉と身振り、それに表情だけで全てを(文字どおり全身で)表現しないといけませんでした。単なるプレゼンテーションやスピーチと異なり、他者を演じるという要素があることで、一味違った英語の練習になるんじゃないかと思います。

そんなモノローグを、プロではない普通のアメリカの大学生が演じたらどうなるのだろうと思い、ふらりと立ち寄ってみました。300人ほどの会場はほぼ満席(so packed)で、それに、学部生(undergrad)の熱気には圧倒されるというか、こういうのは久々だなという感じ。全然観客はいないんじゃないかと思っていたので良い意味で期待を裏切られました。

さて、ミー・トゥー(Me Too)といえば、少し前に日本でも話題になったムーブメントですが、それは女性に対するセクシャル・ハラスメントを告発しようというもの。しかし、今回のモノローグは違います。誰にも話せない、けれども誰かに伝えたい、知ってほしいことって、生きていたら誰しもあるんじゃないかと思います。このイベントのコンセプトは、匿名で投稿されたそんな悩みや思いを、別の誰かがモノローグで演じることによって、共有しようというものです。つまり、舞台上で誰かに自分のリアルな感情を代弁してもらうということですね。こういうのってなかなか日本にないんじゃないか。 

このうち気になったエピソードをいくつかご紹介。

一人目の彼女は、大学のアスリートで、周りからは羨望の目で見られるけれど、どんなに運動しても、厳しい食事制限をしても、痩せられない。パンツをグイッと上まで上げて男の子の前では目立たないようにしている。理想と現実のギャップ。これは割と普遍的な話ですよね。でも特にアメリカの場合は未だに体型に対する偏見ないしステレオタイプ(肥満の人は自己管理ができないとか)が強いから実は結構センシティブな問題なんじゃないかと思いました。

 性的暴行(sexual assult)の話もいくつかあって、一人はアジアン・アメリカン(このモノローグでは投稿者と同じ人種の学生が演じているのが興味深い)の女性で、酒を飲まされて泥酔中に白人男性にレイプされたといいます。「レイプの被害者?それはアイデンティティじゃない。自分で名付ければいい。あなたにはその資格がある (Victim? That's not my identity. You can name it. You deserve it)」

もう一人は、ヒスパニックの女性で、彼女は性的暴行を経験した後、大学や病院、警察に助けを求めましたが、そのプロセスは遅々としたもので、結局何の役にも立たちませんでした。とてもエモーショナルで、怒りと諦観に満ちたモノローグでした。「すべきだったこと、できたこと、したこと。他に何ができるというの? (Shoulds, coulds, dids ... and what else can I do?)」 

「僕のことについて語ろう。僕は白人で、南部訛りがある。だけどリベラルで、それから、ゲイだ」彼はアパラチア山脈の山間の町で生まれ育った。想像どおりの南部の白人による保守的な町で、ゲイであることは、家族にも友達にも言えなかった。けれど今は違う。彼は故郷を離れ、晴れて大学生になり、自由を手に入れた。それでも長期休暇になると家族が街にやってくる。彼は、ゲイ・パレードに参加した時の大きなレインボー・フラッグをドレッサーにしまう。スマホの待ち受けはボーイ・フレンドと一緒に写っているものから家の犬の写真に変える。「あと休みは何回あるだろう?その度に僕は同じことを繰り返すことになるんだろうか(Fall breaks, Thanksgivings, Christmases, Spring breaks. I would probably do the same thing)」

他にも双極性障害の話、アフリカン・アメリカンの恋愛話、移民と貧困の話、病気の父親の話と身近にいろんな話があるものだと感心していましたが、何よりインパクトが強かったのは、赤裸々なセックスの話。ともすれば猥談に過ぎないのだけれど、何というか彼女の場合は切実です。つまり、する時にとにかく痛いのだという話。それでカウンセラーとか病院にまで行っていると。挙げ句の果てにはdildo(敢えて日本語にしないですが)まで使うのだと。もうとにかく爆笑をさらっていました。そんな彼女にも大事なメッセージが。「誰も話していないからといって、それが起こっていないということにはならない(Just everyone's not talking about it doen't mean it's not happening)」これって結構核心をついてるんじゃないかと思う。

 

全体を通じて思ったこともいくつか。 

まず、演じ過ぎないということです。オーバー・アクティング(too dramatic)なのはやっぱり白けてしまうし、何よりリアリティが失われてしまいます。でも一方で、それがあたかも自分の身に起こった出来事であるかのように話さなければならないので、このバランスが難しいところですね。

それから、見る側(受け手)のレスポンス。始まる前に演者に共感したり感動した場合は、指を鳴らしたり足を踏んだりして音を立ててくださいとアナウンスがありました。もちろん、エールを飛ばしたり、声をあげて笑ったりということも終始あるのですが、演者が何か印象的なことを言った時に、会場が一斉にパチッ、パチッと指を鳴らす(snap)のは何とも独特な雰囲気がありました(僕はうまく鳴らせないので悔しいです。)。

あと、構成も綺麗だなと思いました。最初にRENTみたいに演者が全員舞台(といっても一段高いだけですが)に並び立ち、ひとり一言ずつ話しながら、本公演のコンセプトについて説明していきます(既にこの場面で演技が始まっている。)。それからそのうち一人が自身の話を語り始めます。自分のパフォーマンスが終われば観客席へ。すると切れ目なく次の演者がすっと舞台上に上がります。これは演じ手であるとともに受け手である、つまり、それは誰にでも起こりうる(あるいは実際に起こっている)ことなのだというインプリケーションなのかもしれません。考え過ぎかもしれませんが。

最後に、全ての演目が終わった後、また全員舞台上に集合します。それからまたひとり一言ずつ話すのですが、今度は自分のモノローグの中からの引用になります。つまり、その一言には彼らのエピソードの核心が含まれています。そして、さらにそのそれぞれの引用を集めたものが全体で一つのメッセージになっているという構成。お見事。

 

ノローグの可能性、あるんじゃないでしょうか。日本で実現するのってなかなかハードルが高そうですが(調べていなけどもしかしたらもう誰かがやってるかもしれない。)。ただ、受け手の責任というか、これを聞いた誰かが何か行動を起こすかも重要ですね。ただ感心しているだけでなく。そういうのってなかなかできることじゃないけれど。とにかくいろいろ考えさせられた午後でした。