Dancing in the Rain

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Life is not about waiting for the storm to pass but about learning how to dance in the Rain.

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イゴールの深い深い森の話【旅エッセイ/ロシア】

 

 

モスクワからサンクトペテルブルクまでやってきたら、次にどこへ向かうか。フェリーで数時間かけて北欧へ抜けるか、国際バスでバルト三国に下るか、という2つの選択肢がある。ロシアで出会った多くの旅人は前者を選んだ。後者を選ぶのはなかなか渋いというか、硬派というべきかもしれない。そこにはマリメッコもなければ、ムーミンもいない。がっかりするような人魚像だってない。

確かに北上するのにも申し分ない魅力があるけれど、逡巡した結果、エストニアのタリンへ抜け、そこからラトビアのリガへ向かうことにした。ラトビア人の友人に会うためだ。彼は、当時メールでやりとりを続けていたペンパルで、実際に会ったことはおろか、顔さえ見たことがなかった。それでもわざわざ北欧行きを犠牲にしてまで会いに行こうというのだから、我ながら割と律儀なところがある。

サンクトペテルブルクからタリンへ向かうバスは、どういうわけかロシア人の若者で満員になっていた。若者というよりはもう少し歳が浅く、そんなに大挙してエストニアへと行くような需要があるのかと思案していたら、どうも遠足へ行く現地の高校生らしかった。一瞬、僕は間違えてスクールバスにでも乗ってしまったかと思ったけれど、やっぱりそのバスに間違いはなかった。

どこの国でも同じかもしれないけれど、楽しみにしていた遠足へと向かう浮き足だった少年たちは相当に騒々しかった。僕はそのバスに間違いなくアジア人1人で、完全に場違いな雰囲気の中、これから数時間の往路を耐えられるのかと少し心配になった。何しろロシア人というのはほとんどといっていいくらい、(これはモスクワに行ってよく分かったことだけれど)英語を話さないのだ。

「僕はイゴールっていうんだ。英語だとジョージだね。もともとは同じゲオルグに由来してるんだよ」ふて寝をして何とか時間を潰そうかと思っていたら、僕の隣に座っていた少年は流暢な英語で話しかけてきた。いかにも金髪碧眼の美しいロシア人だった。彼は自分の名を名乗るときに喉の奥の特殊な部分で音を鳴らした。

話を聞いていると、幸いなことに彼らはイングリッシュ・スクールの学生ということだった。イゴールは、ロシアのひどい政治腐敗の話や最近の大学入試改革の話や、入ると出てこれない深い深い森の話(本当におっかないんだ、と彼は何度も繰り返し言っていた)なんかを延々と止まることなく話してくれた。というより、数時間ほとんどノンストップで僕には話す隙を与えられなかった。おかげで全く退屈しなかったけれど。

エストニアへの国境に到着すると、見慣れない制服に身を包んだ官憲がパスポートをチェックするためにバスに乗り込んできた。明らかにロシア人とは顔つきが異なっている。その姿は丸々とした森の小動物を思わせた。官憲は一人一人のパスポートを回収し、またバスを降りていった。ロシア人のパスポートには紙面を惜しむかのようにページ一面にスタンプが押されていた。たぶん、何度も国境を行ったり来たりしているのだろう。

しばらくすると官憲はスタンプを押したパスポートを持ってバスに戻った。思っていたよりもそれほど時間はかからなかった。この状況で入国審査で怪しまれるべきは、むしろ僕の方なのかもしれない。とにかく、僕はもうロシアを抜けて欧州との境目まで来たわけだ。

国境を越えると彼は僕が降りるべき場所を丁寧に教えてくれた。思えばこんなにロシア人と話したこと(というよりは話を聞いたこと)はなかった。ロシア人がこんなにおしゃべりだとも思っていなかった。バスは僕を置いて去って行き、僕はまた一人になった。なんとなく、そこにあった喧騒が少し懐かしくなった。