Dancing in the Rain

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Life is not about waiting for the storm to pass but about learning how to dance in the Rain.

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たぶん二度と会わない君へ【旅エッセイ/ボリビア】

15時にウユニ村を出発した3台のバンは、途中で塩工場の町(みたいな名前だったと思う)に立ち寄って、夕暮れ前のまだ明るいうちに塩湖に到着した。思えばずっとこの時を待っていたのだ。鏡に映したような果てしない大地の広がり。湖面に反映する青空と白雲。期待を裏切らない静謐な美しさ。

案の定、そのツアーには日本人が何人か参加していた。わざわざ地球の裏側まで来て、という思いもあったけれど、それほどの観光地なのだから仕方がない。僕の隣に座っていた青年は、まるで箒みたいな長いボサッとした金髪をしていて、日本人の中でも一際目立っていた。けれど、今から振り返ってみれば、青年はその金髪のせいで目立っていたというより、その金髪がどうも彼の顔立ちや背格好に対して奇妙なくらいアンバランスな印象を与えたからなのだろう。うまく説明できないけれど。

「日本だとあまり人と話したりしないんですけどね。マクドナルドでアルバイトしてるんですけど、必要最低限のやりとりくらいで」と彼は言った。話しかけてきたのは彼の方だったと思う。「旅先だと、もう二度とこの先この人と会うことはないだろうなと思えるから、気が楽なのかもしれないです」と彼は僕の質問に答えて言った。人懐っこい屈託のない笑顔だった。

青年は、東京から来た大学生で、歳は21歳だった。短い春休みの間にヨーロッパと南米を一人で旅していて、今回が初めてのバックパッカー旅ということだった。その割には妙に旅人然としていたのは、もう旅も終盤戦だったからかもしれない。

日没まで僕が飽きることなく似たような写真を撮り続けている間、金髪の青年は何をするでもなくただぼうっとそこにある(あるいはあったはずの)空間をじっと眺めていた。そうかと思うと、今度はそのまま水平線の向こう側に消え入ってしまうんじゃないかと思うくらい遠くの方まで歩いていく姿が見えた。

常套句みたいな旅人同士の会話を一通り済ませてから、どういう経緯か忘れてしまったけれど、彼は自分の携帯を取り出して小さな音で音楽を流し始めた。聞き覚えのある独特のイントロ。父親がよく車でかけていたんですよね、と彼は言った。イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」だった。あなたはいつでも好きな時にチェックアウトできるけれど、決してここを離れることはできない、と彼らは静かに歌っていた。それはここからかけ離れた世界のどこか別の文明の石碑に刻まれた宿命的な預言のように聞こえた。

ついに日が沈んで寒さがいよいよ滲み入るようになった頃、暗闇と静寂の中で月の出の時を誰もが待ち侘びていた。日が暮れるにつれて雲が増え始め、いよいよ空一面に覆い被さろうとしていた。今夜はもう絶望的かもしれない。それでもその瞬間を見逃すまいと僕らはカメラ片手に忍耐強く集中していた。

「来るぞ」と誰かが叫んだ。次の瞬間、誰もが同じ方向に向かって歓声を上げていた。それは、ほんの一瞬だった。夜が裂けるように明るんで、ついさっき沈んだはずの太陽がまた昇ってきたんじゃないかと勘違いするほどだった。その光球は単に決められた軌道を惰性で進んでいるというよりは、爆発的なエネルギーを放出しながら、むしろ自らの確固たる意志でぐいぐいと空に向かって昇っていくように見えた。途方もない時間をかけて地底から這い出てきた巨大な生命体みたいに。

僕は呆然とその場に立ち尽くしていた。凍えるような寒さもすっかり忘れていた。これまで幾度も日の出を見てきていたけれど、それはどの日の出とも違っていた。でもそれは永遠ではなかった。ぐいっと中空まで浮かんでしまうと、月は輝きを放つのを止め、いつも見慣れた無機質の土塊に戻った。不自然なくらいにくっきりとした冴えた光だ。空気が澄んでいるからかもしれない。

月の出からしばらくして、すっかり夜も深まると、僕らを乗せたバンは町へと戻った。僕が車を降りて靴紐を結んでいるうちに、金髪の青年の姿は夜の闇に消えていた。そこには、さよならも、良い旅を、もなかった。握手も会釈もなかった。

旅をしているとこういうことは別に珍しくはないのだけれど、ただなんとなく寂しいような気がしたのは、彼がどこか自分に似ているところがあったからかもしれない。あるいは彼の持つ若さに特有の脆さみたいなものを懐かしく思ったからかもしれない。

それでもこの先どこかで彼に再会したとしても、声をかけることは(あるいは声をかけられることは)ないと思う。なんとなく、そんな気がする。第一、僕は彼の名前さえ思い出せないのだ。確かに聞いたはずだけれど。それは更新されてはならない種類の記憶なのかもしれない、と僕は思う。ちょうど写真の中のシルエットがそこに永遠に留まっていなければならないのと同じように。イーグルスがその古い曲の中で歌っていたように。