
赤い橋を渡って左側。30番のバス。といってもジョージア(グルジア)語の数字が読めるわけでもなく、バス停には何の標識もない。標識があったところで理解はできないのだけれど。とりあえず、クタイシの宿のスタッフに言われたとおり、やって来たバスに半信半疑で乗り込む。バスといってもバンのような古ぼけたミニバス。片手に地図を握りしめながら、他の乗客を押し分けて、目的地に近づいたところで「ここで降りたい」と告げて降ろしてもらう。もちろん、他に降りる乗客なんていない。
そこは、忘れ去られた町だ。

鄙びた温泉街、といってもいいかもしれない。ソ連時代、この町は温泉水の湧き出る保養地として、年間100万人ものロシア人が訪れたという話だ。温泉もあればホテルやプールもある、一大保養地だったわけだ。ただ、その賑わいも、長くは続かなかった。ジョージアが独立してロシアとの間で国境ができ、人の行き来が自由にできなくなってからは、この町を訪れる者もめっきり少なくなった。やがて建物は朽ちて、森に覆われていく。あるものは現代の遺構のように、ただそこに安置されている。
それでも、この地に湧き出る温泉水は本物で、リノベーションして再興された温泉もある。とはいえ、人はまばらだけれど。
天気は思いのほか優れなかった。大きな公園のような敷地が広がっている。古びたヨーロッパの庭園みたいだ。かつての栄華を偲ぶ。




いつの頃からか、一匹の犬が僕の前を歩いている。犬の種類には詳しくないけれど、どこにでもいるような雑種犬だ。耳にタグのようなものがついていて、完全な野良犬というわけではなさそうだった。その犬は、まるで先導するかのように僕の前を歩いて行き、時折、僕がついて来ていることを確かめるみたいに、こちらを振り返る。
気づけば巨大なドーム状の建物に行き当たる。壁には、大きな赤字で「崩落注意」「立ち入り禁止」と書かれている。そんなこともお構いなしに目の前の犬はスルスルとその中に入っていく。でも、ここまで来て、中に入らないわけにもいかない。

少しでも目を閉じた瞬間に、その一瞬で全てが崩れ落ちてしまうんじゃないか。そんな底なしの恐怖に囚われる。僕は一歩ずつ土を踏みしめて、それがそこにあることを確かめながら、廃墟に忍び入る。
そこがかつての浴場だったと事前に知らなければ、特殊任務部隊の秘密基地か、不運にもこの惑星に不時着した宇宙船の残骸に見えただろう。
静かに息を吸い込む。もはや存在しないはずの人々の営為が、僕の中で木霊する。
かつてそこにあったかもしれない大きな天窓から差し込む一筋の光。浴槽から立ちのぼる無数の湯気が揺らめく。天井から滴る水滴が壁を伝う。浴槽に浸かる人々、身体を洗う人々。談笑する声が反響する。むせかえるような蒸気に、頬が汗ばむ。僕は、息を呑む。
この光景を、どこかで見たような気がする。目の前の空間全体が、新進気鋭の現代美術の一部なんじゃないかという気さえしてくる。
でも、それは失われたのだ。1989年、彼らは自分たちの世界が崩れ始める音を、こうしてここに立って聞いたのだ。




廃ホテルも、まだそこに立っている。宿泊施設と温泉がセットになったリゾートだったことがうかがえる。宮殿のような造りで、白亜の柱が立ち並んでいる。ロシア流の懐古主義とでもいうべきかもしれない。けれど中は、まるで爆撃を受けた後のように散らかっている。水道管から水が漏れ出している。階段の柱は崩れ落ちて、むき出しになっている。



2階から、複数の野犬の声が聞こえてくる。姿が見えない分、恐怖が増す。いかにも凶暴そうな声だ。今なら無防備な僕が襲われることだって、十分に考えられる。煩いくらいに心臓が高鳴っているのが聞こえる。
けれど、じっと耳を澄ませているうちに、犬の声の向こうに、別の音が混じっていることに気づく。食器が触れ合う音。何かを引きずる音。低く流れるラジオのような声。微かな、生活の音。

野犬だと思っていたのは、飼い犬だった。あとで知ったことだが、2階には、1990年代の紛争でアブハジアから逃れてきた人々が、そのまま暮らしていたのだ。
なるほど、と思った。だから水道管からは、まだ水が漏れ出していたのか。最低限のインフラが生きていたのは、そこに人が暮らしていたからなのだ。
そう考えると、すべてが違って見えてくる。

僕は、この町を「忘れ去られた町」だと思っていた。もはや存在しない人々の営為に思いを馳せていた。けれど、僕が廃墟だと思って忍び入った建物の頭上では、今ここにある営みが、ずっと続いていたのだ。
世界が崩れたあとにも、人の暮らしは続いていく。
ふと、あの犬のことを思い出す。耳のタグ。完全な野良犬ではなさそうだと思ったのは、間違いではなかった。僕を先導していたのではなく、この町で暮らす犬が、いつもの道を歩いていただけなのかもしれない。














































