Dancing in the Rain

Dancing in the Rain

Life is not about waiting for the storm to pass but about learning how to dance in the Rain.

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あの夜、カリフォルニアの荒地の真ん中で起きた出来事について【旅エッセイ/アメリカ】

あの夜、僕らが経験した出来事は、果たして本当に風の仕業だったのか、今となってはうまく確信が持てない。

それは確かに砂利土を踏みしめる足音のように聞こえたし、実際に何者かがざわざわとテントの内室を外から揺らしていたように思えた。けれど、考えれば考えるほど、それはあり得ないことだった。集落から何十マイルも離れたカリフォルニアの荒地の真ん中で、ライトもなしに真夜中を人が歩き回ることなどそもそも不可能なのだ。風だったのだと考えるほうが合理的だし、現実的だと思う。それでも、僕の感じた底知れぬ恐怖は、あまりにも、あまりにもリアルだった。

奇妙な足音だった。それは、こちらにゆっくりと近づいてきたかと思うと、今度は全く別の方向から音が聞こえた。それはまるで音自体が自在に伸縮するみたいに、大きくなったり、小さくなったりした。その不自然な足音を聞きながら、僕は、インドで野宿していたスイス人カップルのバックパッカーがレイプされた挙句に殺されたという話を何となく思い出していた。物珍しさと金目のもの欲しさによる村人の蛮行だった。もし同じような目に遭ったら、と思わないでもなかった。でも、僕は何となくその足音が「生身の」人間のものではないことを知っていた。それは確かに足音だけれど、人間のふりをした「何か」の足音なのだ。

僕はよっぽど大きな声を出して、何も知らずいかにも平穏そうに隣で寝袋に包まっている彼女を叩き起こしてやろうかと思った。この時ばかりは彼女の胆力みたいなもの(眠っていてもそれを発揮できるのかはよく分からないけれど)を恨めしく思った。僕だって、こんな夜半に中途半端に目覚めなければよかったのだ。そうすれば、今この瞬間にテントの外で何が繰り広げられていようとも、彼女と同じように心穏やかな朝を迎えられたのだ。

とりあえず事態を見守ろうと僕は思った。底なしの恐怖を感じつつも、妙に頭は冴えていた。このまま何も起こらなければ僕だけの夢で終わってしまうだろう。逆に何か動きがあれば、流石に図太い彼女でもきっと目を覚まして恐怖の声を上げるに違いない。そうなれば、僕は今起きていることが現実であると確信が持つことができる。裏を返せば、僕はだんだんこれが実は夢なんじゃないかと思い始めているのかもしれない。どっちだっていいさ、と僕は思う。どうせ今さら逃げることなんてできないのだ。

何かがテントに触れた。いや、単に何かが触れたという程度ではなかった。それはフライシートをゆっくりと手で擦るみたいな滑らかな動きだった。何かが自らの意思を持って擦っているのだ。いよいよ気味が悪くなってきた。今こそ彼女を起こす最後のチャンスかもしれない。頭の中ではそう思ったけれど、今度は金縛りにあったみたいに身体が縮こまって思うように動かなかった。大声を出そうにも、案の定、肝心の声そのものが既に失われていた。僕には彼女が起きてくれることを心から願うほかなかった。

気がづけばその「手」の動きは激しさを増していた。今やそれは、あらゆる方向から押し付けるみたいにしてテントをガタガタと強く揺さぶっていた。猛烈な嵐の中に不運にも僕らだけが取り残されてしまったみたいだった。あるいは何かに取り囲まれているのだ、と僕は思った。僕の頭の中にはどういうわけか巨大な十字架を掲げた白装束の集団のイメージが渦巻いていた。馬鹿げた妄想だとは思ったけれど、何が起きてもおかしくない状況にいるのだと思うと血の気が引いた。

その瞬間だった。ようやく覚悟を決めたのか、それはテントの右側から倒れ込むみたいに一気に寄り掛かってきた。それと同時に彼女がハッと目を覚まして、甲高い叫び声を上げた。それが正確にはどんな声だったのかうまく思い出せない。ともかく彼女の響き渡る声は、そこにあった特異な状況を全て吹き飛ばしてしまった。まるで悪霊退散、とでも言わんばかりに。奇妙な足音は止み、そこにいた「何か」は跡形もなく消え去った。

辺りはまた真夜中の静寂に戻っていた。僕は何も言わずにむくりと身体を起き上がらせた彼女を静かに自分の方に抱き寄せた。「大丈夫だから」と僕は言った。何が大丈夫なのか自分でもよく分からなかったけれど、それが僕の口から出た唯一の言葉だった。そうして僕らはそのまま眠ってしまった。上から重しを乗せたみたいなとてつもなく深い眠りだった。

翌朝、かまどの残り火でコーヒーの湯を沸かしながら、僕は昨夜の出来事についてそれとなく彼女に聞いてみた。正直なところ、やっぱりあれは全部夢だったんじゃないかと少し不安ではあったけれど、彼女もちゃんと覚えていた。僕の頭がおかしくなってしまったわけではないみたいだった。

「ほら、ここに来る途中、スカンクを見たでしょ。多分あれじゃないかな。そうじゃないとしても、もの珍しくなった野生動物がやって来たんだよ」と彼女は言った。でもそれはむしろ彼女自身を納得させようとしているみたいに響いた。彼女もそれが野生動物によるものではないことを分かっているのだ。真新しい陽光に包まれた広陵とした大地に僕は目を細めた。

ひとしきりの議論の末に出した僕らの結論は、風の仕業ということにするというものだった。おそらくカリフォルニアの内陸部には気候や地形の関係から独特の風が吹くことがあって、それがあの不自然な足音を作り出し、手で擦るみたいにテントに触れていたのだ。多くの未解決事件がそうであるように、それは何らかの便宜的な理由を必要としていた。たとえ真犯人がいたとしても。そんなわけで、僕らの調書のファイルを紐解くとこう書いてあるのだ。あの夜、カリフォルニアの荒地の真ん中で起きた奇妙な出来事は、紛れもなく「風」によるものであった、と。

それでも僕にとっては、あの時、何か得体の知れない存在が僕らのテントのまわりを取り囲んでいたのだと考えたほうが、全てをすんなりと理解できるような気がする。議会でも裁判所でもどこへでも出て宣誓して証言したっていい。それは決して辺鄙な風の気まぐれでも、スカンクのいたずらなんかでもばく、人の足音であり、形を持った手だったのだ。

とはいっても、もはやそれが何だったのか、もちろん誰にも分からない。それにこんなことを誰かに話したとしても信じてもらえないだろう。だからせめて僕の言い分をここに書いておくことにする。これは彼ら(あるいは彼女たち)に対する非力な僕の細やかな抵抗なのだ。僕は、ちゃんとお前たちのことを知っているし、この耳でちゃんと聞いていたのだぞ、という印なのだ。