Dancing in the Rain

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Life is not about waiting for the storm to pass but about learning how to dance in the Rain.

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シャム王と台風クラブ【旅エッセイ/アルバニア】

 

アルバニアの港町サランダは、前評判に及ばずどこか面白味の欠いた、どちらかといえばつまらない町だった。イオニア海に面したリゾート地とは銘打っているけれど、美しい海ならクロアチアやモンテネグロで散々堪能したし、風光明媚な景色を楽しむにしてはあいにくの天気だった。とはいっても、旅行客らしき姿も割とよく目にしたし、全くもって寂れた町という訳でもないようだった。

その日の宿は、アパートの最上階(たぶん7階くらいだったと思う)の部屋に、二段ベッドをいくつか押し込んで無理やりドミトリーにしたような粗末なものだった。部屋は昼間でも薄暗く、いかにも怪しい雰囲気と言えなくもないけれど、それでいてどこか懐かしいような不思議な居心地だった。それに、悪天候は割り引いてみても、遠くに海が見下ろせるバルコニーからの眺望は悪くなかった。特にこの町に長居するつもりもないし、宿代も考えれば申し分なかった。

ひとしきり町を散策した後、午後に宿に戻ると朝にはなかった人の気配を感じた。奥のベッドまで見回してみるとやはりそこには人の姿があった。どうやらこの日の宿泊客は僕と彼の二人だけのようだった。男は、軽く会釈をして自分の名を名乗った(例のごとくうまく思い出せない)。彼は「王様と私」のシャム王みたいな風貌をしていて、てっきりアジアのどこかからの旅行者かと思っていたら、一人旅のアメリカ人だった。彼も長い旅の途中で、もう二週間もサランダに滞在しているとのことだった。そんなに長い間この町で何をすることがあるのか僕には検討もつかなかった。

日がゆっくりと傾き、辺りは鄙びた町に特有のしんとした静けさに包まれる。僕がバルコニーで腰を下ろして潮風にあたっていると、シャム王は、旅先のシリアかイランかどこかから持ってきたという粉っぽいコーヒーを淹れてくれた。それから、近くの市場で買ってきた上海蟹みたいな小ぶりのカニと小エビを手際よく備え付けのコンロで調理し始めた。オレンジと何だかよく分からない異国のスパイスの食欲をそそる香りが風に乗って漂ってくる。

ここ一週間くらいずっと晴れていたんだけどな、とシャム王はいう。確かに朝からどうも雲行きが怪しい。なんとなく気持ちが盛り上がらないのは天候のせいもあるかもしれない。僕の心は多分に空と相同的なのだ。辺りの暗がりが増すにつれて、パサパサと細かい雨が目につくようになる。僕は薄手のシャツを一枚羽織る。「ほんとに、サーフィン三昧だったんだぜ」彼はそう言って僕に煙草を一本差し向ける。

突然の嵐。

僕は慣れない煙草を燻らせながら、少し身を乗り出して階下を覗いてみる。塵や埃とともに薄汚れたビニール袋やら紙切れやらが荒れ狂うように宙を舞っている。激しく打ち付けるような雨と、どこか遠くで轟く稲光。奇声をあげてはしゃぎながら逃げ惑う子供たち。微かにあった電灯の光も失われ、唐突にやってきた夜の闇に全てが飲み込まれていく。シャム王は興奮したように隣で声を立てて笑っている。昔見た映画の「台風クラブ」みたいだな、と僕は思う。

それから、僕は静かに時間をかけて目を閉じる。僕は、あまりにも自由で、いったい何から逃れようとしていたのか、それすらをも忘れてしまっている。

やがて町はこの夜を越えて漂白された朝を迎えるだろう。まるで何事もなかったかのように。妙に冴えた空気だけが昨夜の記憶を留めているだろう。激しい嵐の後はいつもそうであるように。僕はシャム王に別れ惜しみつつも「さよなら」を言って、ギリシャへと旅立つ。ここで立ち止まるわけにはいかないのだ。何かに追いつかれることがないように。何かを忘れたままでいられるように。