Dancing in the Rain

Dancing in the Rain

Life is not about waiting for the storm to pass but about learning how to dance in the Rain.

MENU

やがて雨足が迫ってくるまで【旅エッセイ/スロベニア】

森を抜けて湖に出る。

さすがスロベニア随一の観光地というだけあって、ブレッドの湖畔の一帯にはホテルやレストランが所狭しと立ち並んでいた。それでも観光客で賑わう人気のリゾート地というよりも、由緒正しき避暑地といった落ち着いた風情で、その一帯を通り過ぎるとまた元の静けさに包まれる。

青々とした深緑の木々の下、目的もなく湖を周回するように歩く。少し白濁したようなターコイス・ブルーの水面が夏の日差しを受けてきらりと揺らめく。時々、泳ぎ疲れて浜辺で涼んでいる若者たちの後ろ姿が見える。また夏がやって来るのだと心が少しざわつく。

「島に行きたいんだけど」と僕は言った。湖の真ん中にポツリと浮かぶその島には、まさに絵に描いたような小さな古い教会が立っていた。その教会の鐘を鳴らせば夢が叶うというとってつけたような伝承まであった。その島は、時と場所によって見る者の心を映すかのようにまるで異なった姿で立ち現れた。

「島に行ったってちっぽけな教会があるだけよ」と宿の女の子は言った。「それより山を登って展望スポットまでいけば?それなら無料だし、何より抜群の景色よ」確かにそれも悪くない、と僕は思う。人とは違う景気が見たいなら、それより高みに行かないといけない。小舟に揺られて一人その島に向かうというのも何だか物語的で惹かれるところがあるけれど。

僕は彼女が手書きで書き込んでくれた地図を頼りに目当ての山を目指した。それは山と言うよりは少し高い丘といった雰囲気で、山頂までたどり着くのにそれほど時間はかからなかった。ところが、中腹のいくつかの展望台を通り過ぎ、やっと山頂の眺望が開けた頃にはかなり怪しい雲行きになっていた。折角の景色を求めて来たけれど、早めに下山した方が安全のためかもしれない。

山頂から見下ろすように湖の西に目をやると、白い靄のようなものがだんだんと濃くなっていくのが見えた。どこからともなく現れた分厚く湿った鈍重な雲が、まるで意思を持った生命体のように湖を取り囲もうと忍び寄ってくる。それはゆっくりと時間をかけて森全体を飲み込んで、やがては湖面まで降りていくのだろう。

ざわざわと轟音が激しく森を打つ。川端康成の「伊豆の踊り子」の冒頭みたいに、雨足が森を白く染めながらものすごい勢いで雨がこちらに迫っている、という表現がぴったりだった。道は九十九折りになっていないし、旅芸人の姿はどこにも見当たらないけれど。

「あれは雨じゃないわ」と後ろから声がする。振り返ると青い小さなバックパックを背負った女の子が一人立っていた。どうやら彼女も僕と同じようにこれから急いで下山するところのようだった。どの山にも物好きはいるものだと思ったれど、彼女がニュージーランド人であるということを聞いて、何となく合点がいった。

「雹よ」と彼女はやっと思いついたようにそう言った。確かにそれは雨ではなかった。気がつけば地面に白い粉のようなものが散らばっていた。なぜ初夏のヨーロッパの空から氷の塊が降ってくるのか僕にはてんで理解できなかったし、彼女にもわからなかった。「でも、少なくともこれで濡れずに済むね」と僕は言った。確かに、と彼女は声を立てて小さく笑った。

しばらくして彼女はその場を去り、僕はいよいよ一人になった。

そろそろ雹も雨へと変わって本降りになるかもしれない。それでも、なんだか僕はもう少しそこに残っていたいような気がした。このまま雨でずぶ濡れになってしまってもいい。やがて湖やら教会やら何もかもがすっぽりと真っ白に覆い隠されてしまうまで。それから、僕もまたその分厚い霧の一部になって、世界との境界線がすっかり失われてしまうまで。