Dancing in the Rain

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Life is not about waiting for the storm to pass but about learning how to dance in the Rain.

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隔絶した大地で【旅エッセイ/アイスランド】

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とにかく眠い。もう5時間くらい運転し続けている。さすがに小曽根真のピアノも聞き飽きてくる。

アイスランドという国には公共交通機関という概念がないようだった。観光するにはツアーに参加するか、車を借りて自力で周るかになる(そしてもちろん僕は後者を選ぶ、そこに迷いはない)。ただし、自分に与えられた時間は二日間だけ。崖っぷちのシンデレラ・ボーイ。

時々頼りにしていたカーナビが未舗装の山道に導く。濃霧で視界が遮られる中、バリバリと不吉な音を立てながら進む度に、黒々とした火山岩が宙に舞い、フロントガラスに落ちてくる。ところどころにレーシング・ゲームのトラップみたいな陥没が待ち構えている。スズキのスイフトには、(ずいぶん頑張ってくれたけれど)少し荷が重い。

次の目的地を打ち込むとまた5時間と出る。距離感覚がおかしくなってくる。幹線道路は一車線。制限速度時速90キロ。市街地以外信号はない。だだっ広い平原に最低限の舗装をしただけ。そこをただひたすらに突っ走る。空は絶望的なくらいに分厚い雲で覆われている。

さすがに何か食べた方がいい。もう朝からずっと何も食べていない。たまたま目についた青いペンキで塗られた小屋のような店で車を停める。ショウ・ケースには、見た目にも甘そうなドーナツが行儀よく並べられていた。その向こうには誰もいない。

「誰かいませんか」と声を張ってみる。後ろをツインテールにした中学生くらいの女の子が小動物のようにもそもそと出てくる。僕は、急ぎ注文したドーナツ二つをコーヒーで流し込んだ。アイスランドにしては悪くない味だった。もう用は済んだでしょう、と言わんばかりに少女はそそくさと去って行った。また店の中は僕一人になった。

もうこの場所には二度と来ることはないんだろうなと、車のエンジンを吹かしながら僕は思った。そしてその町は、僕の記憶の奥底に、名もなき町として、青い小屋の無愛想なドーナツ売りの少女とともに刻み込まれることになる。

日は急速に傾き始めていた。そろそろ戻らないと本当に間に合わないかもしれない。山間に沈んでゆく夕陽を映して山に残った氷が神々しいくらいに煌めいている。まぶたが鉛のように重い。

道中何度か小動物が轢かれているのを見た。自分が轢いたのかもしれないし、誰かが轢いたのかもしれない。眠気覚ましにと頬を思い切り抓りながら、何度も奇声を上げる。ここで眠るわけにはいかない。

日付が変わる頃、なんとか車の返却場所となっているホテルに辿り着く。漏れたガソリンの匂い。フロントにキーを返す。すんなりと受け取る彼女。車の確認はしなくていいのかな、と僕は老婆心ながら言う。いいのよ、私の仕事は鍵を受け取るだけだから、と彼女は僕の方を見向きもせずに言う。肩から力が抜けていくのが分かる。なんとかレイキャビクまで戻ってきた。走行距離にして約1000キロ。

振り返って考えてみれば、この国に特殊なのは、隔絶された北の果ての孤島という地理的状況があり、人々は独自の難解な言葉を話し、固有の動植物がひっそりと生息していて、火山は休むことなく活動を続ける一方で氷河は時を知らずに留まり続け、海溝は毎年のように新たな大地を生み出し、天変地異のごとく天気は気まぐれで、そして異様な高物価が旅人の財布を圧迫するという、他の世界とは異なる別の宇宙を構成しているということだ。それが故に、もう一度この国を旅したいかと聞かれると、少なくとも今は答えに窮してしまうことになる。

空港で夜を明かす。さっきまでの眠気を思い出せないくらい浅い眠りにつく。明日の朝には無事にストックホルムに到着できることを願いながら。

さようなら、アイスランド。また会う日まで。